基本技「第一教」から考える合気道の攻撃性:自分から攻撃しないとは?
第一教と攻撃について
いわゆる一教というのは合気道においては基本中の基本みたいな技です。
ところで合気道というと、自分からは攻撃しないとか、護身術みたいなイメージで語られることがありますが、そうでもないんだよねってことをちょっと説明したいと思います。
開祖が監修し二代目吉祥丸前道主が書いた『合気道』では「第一教、面の鍛錬」として定義されています。
ここでは意外と現代の合気道ではおろそかにされがちなことがいくつか書かれています。
この鍛錬(第一教)は、気の作用、入身法、当身、体の捌きなどすべてが渾然として集約されており、殊に力は腰の動きが中心となっている。
『合気道』第三項基本固め技より抜粋、()内、太字はマツリによる
合気道の開祖は「合気道は当身が7分、投げが3分」と言っていたなんて話があります。
一教にはすでに当身(攻撃)の稽古が組み込まれているよって話ですね。
実際『合気道』にはこのような記述もあります。
(一)自己が受身の立場に立たぬこと。
最初相対した時より既に、相手の魂を制する底の気力を身に湛(たた)えていなければならぬ。而(しこう)して両手刀を打ち出す時には、左拳にて相手のあばらを突き、又右手刀にて相手の右手を圧するが如き気持ちを以(もっ)て打ち出す。
ここで気力と称しているのは、硬直した力のことではなく、身体の節々はどこ迄(まで)も柔軟に保ち、自然に腹から出てくる伸び伸びした力を指すのである。
『合気道』より抜粋。()内、太字はマツリによる
当て身が7分と言われると攻撃しまくっているような印象がありますが、合気道での攻撃は制圧と同時です。
相手を不利な体勢にして自分は好き放題ボコスカ殴るのであり、五分五分の状況で殴り合いをするというのとは発想が少し違います。
動画でも裏に入る時にわきばらへの突きと同じタイミングでかけることを説明していますが、
『合気道』では同じような状況でこのようなことができると書かれています。
左足を一歩前に踏み出す際、相手の右足に対して「蹴り」ということも考えることが出来る。斯様(このよう)なことは、一つの型にこだわることなく、如何様(いかよう)にも変化自在である。
合気道より抜粋。()内、太字はマツリによる
というわけで合気道の一教からしてすでにけっこう攻撃的なのです。
じゃあ自分から攻撃しないってなんなの?って話ですが、
ちょっとひねくれた回答かも知れませんが、自分から攻撃しないというよりは、自分から攻撃も制圧も同時にするからなんじゃないかと、、、
一休さんも真っ青なとんちですね。
冗談はさておき、人によっては当身で相手を崩してから技をかけるといった説明をされることもありますが、正確には崩しと制圧は同時なのだと思います。
一粒で二度おいしい!的な陰陽の発想ですね。
また『合気道』にはこのほかにも、第一教をはじめとする技を行っている最中は必ず四方八方からの攻撃に注意するようにとも書かれています。
単に技をかけることに気を取られるのではなく、周囲の状況を把握する余裕も大事ってな話です。
普段の稽古から他の人とぶつからないように注意したいっすね。
関連記事
触れずに倒すということも受身ではない姿勢があるからこそです。
ヤラセ?八百長?触らずに相手を倒す合気道の技術の理屈
合気道の第一教から第四教までの解釈はコチラ。
四教論:なぜ合気道の技法には「教」の字が使われているのか?
参考文献
(1)植芝盛平監修・植芝吉祥丸著『合気道』復刻版(Amazon)