武道と宗教における「全体性」の考察:宗教生活の基本形態最終回

ぜんたい

さてさて、けっこー長いことやったシリーズもとうとう最終回です。

 

最初はなんかちょっと武道とも関係があったらいいなぁくらいのノリでやってましたが、がっつり共通点が見えてきて自分でもビビりました。

 

もう宗教と武道に共通性があることは散々説明できている気がしますが、最後に武道と宗教が持つ「全体性」に対するアプローチについて語っていきたいと思います。

 

宗教も武道も人間社会という集団生活の中で成り立ったものであり、宗教は思想から武道は肉体から「全体性」を追求しています。

目次

・同じだから「転換」できる

・社会が生んだもの「概念」と「カテゴリー」

・武道と宗教の「全体性」とは?

同じだから「転換」できる

とりあえずサクっと第3部の第5章を解説しましょう。

 

アボリジニーにも死者に対して喪にに服すという行為があります。ただ、これまでに説明されたように死者に対して悲しみを持っているというよりは儀式の方に重きが置かれています。

 

人が死んだ時にアボリジニーは大げさなまでに悲しみを表現するそうです。

あんまりだ

親族同士で殴り合ったり自傷行為を行って血を流すことで悲しみを表現してみせるわけですが、なぜこれをやるかというと、これをやらないと死んだ者に呪い殺されるからと信じられているからなんだとか。

 

悲しいんちゃうんかーい。

要するに悲しんでるフリを全力で表現しないと死ぬわけです。悲しんで生き延びるか、悲しまないで呪い殺されるか……理不尽な二択だなぁ。

 

といっても悲しんでるフリは現代社会でも必須です。キリスト教なんかでもイエスの受難など、今日は「イエス様が処刑された日」というときは神妙に悲しんでいるフリが要求されます。これができなきゃ仲間じゃねぇよな的なやつですね。

 

要するにここで重要なのはみんなで悲しむことなのです。ぶっちゃけ死者に呪い殺されるとかはあくまでも後付けで、集団で悲しんで組織の強さを再確認するためにあるのです。

 

人数の少ない集団では一人が死ぬことは一大事です。ただ「絆を再確認するためにみんなで殴り合おうぜ」とはさすがに言えなかったので、とりあえずやらないと死ぬってことにしたのでしょう。

 

この「悲しまないと死者に呪い殺される現象」ですが、ちゃんと悲しみの儀礼を執り行うと、ぶち切れ状態の恐怖の死者も大満足して聖なる守護霊へと「転換」してくれます。

ええんやで

このことからデュルケームは聖なるものと不浄なるものには「両義性」があると解説しています。

 

聖なるものとは愛と感謝を感じるもの、不浄なるものとは死や畏怖を感じるものですが、これは実のところ同じものだというのです。

いにゃん

例えば豚肉を食べるのが禁止されているのは「豚が神聖だから」と「豚が不浄だから」どちらの理由付けでも成立させられますね。

 

目的としては食べなきゃいいので、ストーリー自体は聖なるものにも不浄なるものにも転換できる。

 

「転換」とは同じものだからこそ実行することができます。そして「転換」というのは合気道の極意としても知られています。

 

物理的な技としての転換も、やはり相手と自分は同じものだという理解と、そう仕向けることからはじまります。同じ材質、繋がったもの、結び合ったものだから「転換」することができるのです。

 

地震で建物が倒壊するのは、地面と建物が同化しているからです。大地と同じであれば建物も同じように動いて倒れるので、耐震システムは建物と地面とを別のものとして切り離したりしてますね。

 

合気道の技は相手と自分を同じ材質にすることで、自分の動きを相手に伝えるという解釈もできます。人を動かすためにはこの「転換」の使い方が大事です。

 

そういった意味で宗教と合気道の「転換」も同じだと言えます。

ここまでの参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』第3部 第5章

社会が生んだもの「概念」と「カテゴリー」

デュルケームは宗教というのは正義が行われる完全な社会を目指すものであるとしています。

 

これを読んだとき私の頭にはラーメンハゲとして知られる「ラーメン才遊記」の登場人物、芹沢さんが思い浮かびました。彼はラーメン狂いであり、このシリーズにおいてはジョーカー的な役割を持ったキャラクターなのですが、

 

あるとき料理研究家から「ラーメンとは料理としては所詮はフェイク」という真理をつきつけられた時、芹沢さんはそれに対してこう答えます。

 

「ラーメンとはフェイクから真実を生み出そうとする情熱そのものです」これはまさに宗教が真の正義を目指すのと同じ原動力だと言えます。

参考:作・久部緑朗、画・河合単、協力・石神秀幸『ラーメン才遊記』(11)

 

理想だけは本物なのであり、それこそが重要なのです。

 

宗教は悪が倒され、善・生命・光が勝つことを理想としています。ただ現実では悪にだってそれなりにパワーがあるので反映させとかないと「なんだよ嘘じゃん!」と言われかねません。

 

だから悪魔もちゃんと強いんですが、現実社会もある程度は正義が行われているからこそ社会生活は成り立っており、それ故に宗教は嘘ではないと言えるわけです。

 

この理想と現実を重ね合わせようとするところが人間の特性で、他の動物ではできないことなのだとか。

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理想社会の実現のためにはまずは集団の利益が優先されます。だからこそ個人の人権みたいな話は最近まで重視されてこなかったのです。

 

集団を脅かさない程度の個性は尊重されても、度を超した個性はやっかいなだけです。色んな多様性が出てきたのは、一応それだけ社会の懐が深くなったからとも言えますね。ただ単に混乱してるだけとも言えますけど……。

 

宗教で人を団結させ生み出された社会は人々をつなぐツールとして「概念」という超便利な共通認識を生み出しました。

 

人々の感覚というのは毎日変化します。体調や気分によって簡単に印象は左右されて今しますが反対にほとんど変化しないものが「概念」です。

 

例えば集合的概念は道徳関係の事実(墓石を蹴らない、むやみに暴力を振るわない)です。科学的概念は検証によって判明した事実(人は寝ないと死ぬ、熱が出たら冷ます)とかがこれにあたります。

破壊

「概念」は道徳的にも科学的にも長い年月をかけて人類の中で淘汰されてきた共通認識で、いわば半永久的なもの。

 

人々が同じ社会で生活できるのはこの「概念」を共有しているからです。人は言葉によって個人では知ることが不可能な情報を共有することができます。そしてこうした多くの「概念」によって人は共通認識を持てます。めっちゃ便利。

 

武道では練習のことを稽古と呼ぶんですが、これは古事記の「稽古今照」から来ておりまして、

 

意味は「いにしえを考えて今を照らす」ということで「概念」とはまさに今を生きるために過去の人々の経験をまとめたもの、つまり人々が社会で行ってきたことそのものが「稽古」なのです。

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人類はずっと稽古してきたんだなぁ。

 

そしてこの「概念」をさらに包んでいるのが「カテゴリー」です。デュルケームは時間や空間、あるいは色んなものにある共通点、共通認識をカテゴリーとしています。

 

個人では一部分しか見えていないもので、社会全体を通すことではじめて見えるものがカテゴリーです。

 

よくクオリアと言って、自分が赤いと思っている色は他人には同じ赤とは感じられていないかも知れないという話がありますが、言うたらクオリアというのは個人にしか知覚できないもの個性みたいなもんです。

 

逆に時間の流れなんかは平等に働いているわけですが、これも個人レベルではハッキリとは知覚できません。

 

知り合いに赤ちゃんが生まれて数年後に出会ったら、歩いてしゃべっていて成長に驚いたりしますけど、

 

個人というのは時間の流れがあることは理解していても案外自分以外の時間の流れを把握していない節があります。

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これに対して社会の全体性が365日1年12ヶ月1週間1日24時間という時間の共通概念を生み出してカテゴリーにしてくれているので「そうか、あれからもう5年もたっているのか、、、」みたいな感じである種の納得が生まれます。

 

こうした全体性から変わることのない「永遠なるもの」を生み出すのが社会の役割であり、社会が生まれたことの利点だったわけですね。

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最近の将棋ソフトや囲碁ソフトなんかは人の能力を超えつつありますが、こうした統計的なデータやディープラーニングから見つかる法則性は個人でたどり着くことがほぼ不可能な答えを導き出します。

 

ちょっとした喧嘩が殺し合いに発展しないのは法律や警察が整備されているからで、さらに強盗や無差別殺人が頻繁に行われないようにするために生活保護や国民保険などの福祉システムがあります。

 

社会は全体を見渡しているのでこうしたシステムになりますが、個人は目先のものしか見えないので「失業者に金をやってどーすんだ?」みたいな話が出てくるわけです。

だまし

社会とは論理的で非人格的な理性の世界であり、個人は物質的で感覚の世界に住んでいます。そのふたつの世界は異なった歯車みたいなもんで、人によっては摩擦を起こしてうまく回らなくなります。

 

こうした個人では認識できない視点、それが「全体性」なのです。

武道と宗教の全体性とは?

このデュルケームの「宗教生活の基本形態」を読んでいる間、いたるところに合気道を感じていました。それがなんでなのか、最後まで読んでわかりました。

すべての道は

合気道もずっと「全体」のことを語っていたからです。合気道の開祖は「合気道とは天地の気に合する道」とも言っていました。個人を全体と合わせるのが合気道だってことですね。

 

武道というのは主に個人の精神と身体を中心にした分野です。例えば身体を考えるとき、一部の筋肉や呼吸、反射といったものは個別にはバラバラな要素です。ひとつひとつを分類することもできますが、それらすべては肉体全体に及びます。

 

身体の腕や足が個別に動いていては統一された力が発揮されません。人の身体は小宇宙だとする宗教の話もありますが、人体も社会そのものと考えることができます。

 

結局、人体だってちゃんと社会のように全体で動くようにしないと技が生まれてきません。

 

そして、個人の肉体の活用を考えた時、最終的には社会全体との調和を考えなければいけなくなります。

大自然

武道というのは宗教の逆で、宗教は社会に人を適合させるためにできていますが、武道は個人を社会と適合させる役割があると思います。宗教とはアプローチのしかたが逆なんです。

 

先ほど説明したように、何かを動かすためにはそれと同じ材質にならなければいけません。他人を動かすためには自他を一致させなければならず、社会を動かすためには天地と一体にならなければいけない。

 

このように個人の側から社会に対する適合の手法として「武道」を考えることができます。

 

合気道開祖は合気道は宗教を完成させるためのものだと説明していましたが、それはある意味で必然的な解釈だったのかも知れません。

 

筋力とか術とかで相手をどうにかするというのではなく、相手の力も宇宙の法則である物理も利用するのが合気道です。最初から勝っているという境地にまで立てればもはや個人の部分的な強さは問題ではなくなります。

すでに勝っている

結論として「全体性」を考えることこそが武道だというのが今の自分の解釈です。

 

社会が強力なのはそれが人類の総合力だからです。そして、それは強すぎるが故に個人ではどうすることもできない非人格的な冷たさも生まれます。

 

個人の側も社会に対する強さを持つ必要があり、そのひとつの方法として武道という選択肢もあるかも知れません。

 

といってもこれは一から十を考えるか、十から一を考えるかみたいな話なので、別に武道に限ったことでもなく何かの分野をきっちりと追求すれば同じような結論をたどるんじゃないかなぁと思いますが、他の分野は詳しくないのでとりあえず武道の場合はってことで!

ここまでの参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』結論

あとがき

そんなわけでエミール・デュルケーム著『宗教生活の基本形態』を解説しつつ合気道をこじつけるという試みをやってきたわけですが、マジでオレ得でした。正直読んでる人はかなり置いていった気がしますが、個人としては合気道に対する理解がめっちゃ深まりました

 

かなり難解なテキストだったので読んでいる人を置いてきぼりにしてしまった気もしますが、他の誰も得しなかったとしても、おれは得したぞ!と言い聞かせています。

 

あくまで個人的な解釈とはなってしまいますが、宗教と武道は同じものの別の側面を現していると思います。

 

このように同じだと思えるものが増えれば増えるほど「転換」することができるし、一体となることができる。

 

こうして色んなものと合一する道を探すのも、ひとつの武道かな、などと思いますが、まぁ毎度のことながらいくら知識として考えられていたところで、肉体で体現できなきゃクソの意味もないというのが武道なので、

 

おれの稽古はこれからだ!ということでマツリくんの次回作にご期待ください。

これからだ

おわり!

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