宗教的な儀式と武の技の共通点

ぶぎ

さてさて、相も変わらず合気道と宗教生活について考えていくこのコーナーですが、ジョジョでも一番面白いという意見の多い、第三部に入ります。

 

ちょっと面白すぎてブログにまとめるのが追いつかなくなってたり、書いてたデータが消えやがったりしましたが、めげずにやっていきます。

 

日常と非日常という二重性が宗教のメインでしたが今回はその本質について迫っていきます。

目次

・霊魂と精霊の正体

・社会は抜け駆けを許さない

・一部は全部で全部は一部

霊魂と精霊の正体

これまでず~~~っとやってきた、霊魂と精霊とは結局のところ何なのかということですが、

 

簡単に言ってしまえば霊魂というのは人に宿る聖なる要素で、精霊は色んな物に宿る聖なる要素です。

 

例えば日本ではいくら無宗教だと主張しても、墓石に思い切り蹴りを入れられる人は少ないのですが、

 

それが何故かと言えば、人に宿る霊魂が蹴るのをためらわせるのであり、墓石に宿る精霊が蹴れなくしているのです。

破壊

じゃあこの霊魂や精霊の正体は何かと言えば、それは道徳です。

 

頭でどんなに神なんかいないと思っていても、無意識の部分では社会的にこれをやったらマズいというもうひとつの頭でストップをかけてしまっている。

 

これが霊魂や精霊の正体です。

突然の死

社会というのは意味のあるルールで構成されています。人を殺したらダメとか、人の物を盗ったらダメというのは法律ですね。

 

でも一方で明文化されていないルールもあります。守るのが当たり前みたいなルール。いただきますをするとか、仏壇にはお供え物をするとかいうのも、ある種のルールのないルール。儀礼です。

 

じゃあこのルールのないルールはどこから来たのか?

 

その発生源は社会システムです。社会が必要とするからこそ、儀礼は生まれたのです。

ここまでの参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』第2部 第8章~第9章

社会は抜け駆けを許さない

『聖なるもの』とは日常から区別された存在のことを言います。考えてみると日本の神社や寺、キリスト教の教会などは静寂が守られ、激しく動くようなことはなく、禁止事項が存在していることで非日常を生み出しています。

 

こうした禁止されたものが存在する場所で、選ばれた集団だけが儀式を行うと仲間意識がバリバリにアップし、さらに日常とは違う特別さが加えられます。それは即ち自分たちの集団は特別なんだという意識を生み出します。

仲間

イニシエーションなどで新入りを過度に痛めつける儀式が存在するのは、社会制度として「いじめ」が存在しているからなのだそうです。ようするに社会の素晴らしさを新人と自分たちに知らしめる為に「いじめ」があるのです。それだけ価値あることなんだと互いに言い聞かせてるわけですね。

 

武術の世界では「秘伝」とか「奥義」の中には見せてはならないタイプのものがあります。こうしたものは実は仲間意識を高めるという意味で有用なのかも知れません。自分たちの集団を聖化しているわけですね。

 

そしてこうした中でも積極的に行う儀礼としてあるのが「みんなでタブーを犯す」ことです。トーテム動物の聖なる力を取り込んで神とひとつになるために、普段は禁止されているトーテム動物を食べる行為も儀式の時には解禁されます。

mezasi

赤信号みんなでわたれば怖くないって言葉がありますが、まさにこれで、おれたちの社会すげぇ、神に認められてるからルール破っても大丈夫じゃん!これがまさに宗教です。

 

みんながいれば神すら越えられるというテンションあがりまくりの状態。暴動とかも似たようなモンですね。人が凶暴化しちゃうのは完全に集団の力に酔いしれてるからです。

 

神輿を担ぐように神を支えて助けることができることを知れば、神輿をかつぐ集団の価値は高まっていきます。

 

人間というのはそもそもは個人的な生き物で、自分の利益を最優先して行動します。しかし、宗教をはじめとする集団行動は、自分のためだけに行動することを封じる強制力を感じさせます。そして実際に集団行動をした方が都合がいいことも沢山あるのです。

omg

おれは抜け駆けしませんよ、ということを暗に示すために、みんなで暗黙のルールを守り、いただきますをして、仏壇にはお供え物をするってことですね。

 

こうした行為をするとき、わたしたちは日常から切り離されます。祝日なんかも基本的には宗教行事のために存在しています。休日も仕事(日常)から切り離す行為です。祝日に『特別感』があるのもそれに聖なる要素があるからこそです。

 

よく人の感情を意に介さないタイプの人をサイコパスと呼びますが、こういう人はもしかしたら道徳観というのに影響されにくいからこそ恐れられるのかも知れません。

 

まぁともかくひとつ言えることは人は集団になると人が変わるのが普通であり、集団になった人が生み出したのが宗教なのです。

 

このような暗黙のルール以外では、大勢の人間をコントロールするのは難しかったのでしょう。

ここまでの参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』第3部 第1章~第2章

一部は全部で全部は一部

なぜ、同じ行動をすることで抜け駆けが発生しなくなるのか?というと、それが聖なる力の効果だからです。

 

以前から説明しているとおり、聖なる力というのは拡散します。一つのものから二つに分かれる陰陽のように、一人が行った儀式でも家族に作用し、家族の儀式は親族に作用するのです。

yonyang

呪いの藁人形なんかは知っての通り、呪いたい相手の髪の毛(一部)を藁人形に入れて痛めつけることによって相手(全部)に危害を加えるわけです。これも一部が全部へと拡散していますね。

 

こんな感じで神のマネをすればそれは神へと通じます。いただきますで手を合わせるのはお坊さんのマネと言えます。そうやってみんなでマネをすると全体をひとつにまとめあげるのです。

 

一人一人の行いが集団全体の存続にとって大きな意味を持ってきます。個性? そんなもん邪魔なだけだろ! というのはある意味では正しく、現代の社会は個性を尊重するだけの余裕が一応あるって感じなんでしょう。

 

ひとつの行為が全体に通じるというわかりやす例は結婚式と葬式です。

 

結婚式と葬式は一見すると全然別物ですが、要素を抜き出すとメインとなる人物がいて、祭司によるその人のための儀式があり、そして最後に見送るという決まった流れがあります。

 

つまり、やってることは同じだけど、お祝いにもお悔やみにも使えてしまうわけです。

マジかよ

合気道には小手返し、入身投げといった技がありますが、こうした技は実は全部同じ動きから使うことができます。技の名前が違うのは相手との距離などの微妙な違いからきています。

 

人間のやることというのは動作にしろ儀礼にしろ大枠は同じなのかも知れません。

善悪

ただ、合気道は人口が増えて行くにあたって、技に名前をつけたり審査を行うようになったりして、これらを区別する方向に進みました。ルールがはっきりと明文化された反面、暗黙のルールの方が忘れられているようにも思われます。

 

全員が同じことをやることを重視すると、中身が抜けていきます。マナーなんかはまさしく意味はないけどやらなきゃならないものです。集団としてはこれでいいんでしょうけど、技術としてはこの根幹が失われるのはマズいのでなかなか難しいところです。

 

ある意味では組織のあり方みたいなものも、宗教の原初形態から見えてくるようで面白いですね。

 

逆に合気道の技は社会のあり方そのものというか、それぞれ別の名称があっても本質的なところが同じようになっていることは「よーできとるなぁ」と改めて感心させられます。

ここまでの参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』第3部 第3章~第4章

 

さてさて、はじめた頃には終わりの見えなかったデュルケーム解説ですが、おそらく次でラストです。たぶん、きっと。

関連記事

宗教とはどこからやってきたのか?:合気道と日常の二重性について

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です