宗教とはどこからやってきたのか?:合気道と日常の二重性について
前置きがひたすら長かった『宗教生活の基本形態』ですが、いよいよ本題が近づいてきているという予感がしてきました。(まだ本題ではないっぽい)
ダメ押しとばかりに霊魂崇拝と精霊崇拝を再度ボコボコにしながら、宗教が一体どこからやってきたのか? がトーテミスムを中心に語られます。
宗教の発生は必然なのか偶然なのか、個人からなのか集団からなのか、この辺りのことを理解してみると、社会そのものの見方が変わってくるかも?
目次
徹底的にブチのめすデュルケーム
とりあえずデュルケーム的にはトーテミスムこそが宗教の原初段階ってことなので、アニミスムやナチュリスムがトーテミスムより先という説を徹底的に潰します。
「やめてーもうアニミスムとナチュリスムのライフはもうゼロよー」「HANASE!」←今ココ
まずアニミスム第2ラウンドは「輪廻」の方が先だろ派です。
輪廻転生というのは祖先崇拝のひとつの形で、先祖の霊は再び人になったり、あるいは他の動物になって家族の元へやってきたりするというものです。
トーテミスムはトーテムとか神聖な動物は祖先が転生したものだとして、輪廻の思想から変化したんじゃね?という意見ですが、輪廻という発想自体がまず家族が安定して生活できるレベルまで文明が築かれないと難しいのです。
つまりトーテミスムは氏族とか部族の単位までしかまだ安定していないので家族や個人の霊がまた戻ってくるという輪廻のことまで考える余裕がないってことになります。
特別な英雄とかが輪廻する場合はあるみたいですが、それも人間にしか生まれ変わらないのだそうです。そんなわけでむしろトーテミスムが変形して祖先を崇拝するようになったんじゃねーのってことで。おわり。
ナチュリスム第2ラウンドは「偉大なる自然のパワー」を手に入れようぜ、という形でトーテムを動物や自然の中から取り入れたのではないか?ということなんですが、これはもう色々と穴だらけです。
強大なパワーが欲しいなら強い動物のトーテムに所属するはずですが、実際は毛じらみだの袋ネズミだの冴えない連中ばかりです。
しかも強いパワーを求めるなら、一匹ではなく複数の動物をトーテムとしたはずだというツッコミも入ってしまいます。トーテムとはそういう目的では使われてないってことですね。はいおわり。
こんな感じで第2ラウンドは終了です。歯ごたえがないのぉ~というデュルケームの声が聞こえて来そうな展開です。つまるところ、トーテミスムこそが調査できる限りの原初の宗教なのだとか。
個人と集団どっちが先?
では、トーテミスムが宗教の起源だとしたら、個人と集団のどちらからこうした概念が生まれてきたのでしょうか?
デュルケームは氏族などの集合体のトーテミスムが先で、そこから副トーテムという感じで個人へと派生したと考えているようです。
ここらへんは実に合気道的な発想です。色んな宗教で神を形容するときに「個にして全、全にして個」とか「アルファでありオメガである」といった言葉が使われます。
ようするに神というのはすべてであり、そのすべてをまとめたひとつでもあるってことです。だからあらゆるものの中に共通の神がいるというわけです。
デュルケームはこうした神を「拡散するエネルギー」だと説明しています。プラスの現象もマイナスの現象もあらゆるものを神が司っており、すべての原因は神のエネルギーなのです。
トーテミスムとはその神のエネルギーを一匹の動物とか紋章にまとめてしまっているのであり、こうしたすべてのものの中を循環している共通した神聖なエネルギーが神なのです。
だからこそトーテム動物がバラバラであっても、実は一つの神を信仰していることになります。
個性的とか、特別と言われるようなものというのは、まず全体と比較して違うということがわからなきゃならないんですよね。
世界的にみてもユダヤ教からキリスト教やイスラム教が派生しています。これはつまり集合体から新しい宗教が派生しているということなのです。
イエス・キリストはユダヤ教の問題点を改善しようとしていて暴れまわった結果、いつの間にかキリスト教ができて、世界中に広がりました。
誰かが何らかの神を思いついたとしても、社会に受け入れられて、その社会に価値あるものだと思われなければ広まったりはしないわけです。信じる人が少ないと宗教として形になることは難しいのです。
このようにして全体が持っていた宗教が内部分裂して胞族、氏族、個人へと別れていったのが宗教の本質なのではないかということです。
重要なポイントは「社会」になじむかどうかだということです。賛同者が多いということは政治でもあり祭りでもあり、まさしく宗教の本質なのではないでしょうか。
ここまでの参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』第2部 第5章~第6章
社会と神は重なる
根元的な宗教の神という概念は、現代の宗教のように人を地獄に落としたり天罰を与える恐ろしい神ではなく、あらゆるものの中にある力であり、社会そのものでした。
罰則を与える神というのは、社会的な意図を含んでいるとも言えます。
神と社会はある意味で一体です。ガリレオがどんなに「それでも地球は回っている」と言っても認められなかったように、社会が合意しなければ真実ですら認められないのです。
日本での箸の持ち方、インドでは左手を使えない、フランスではハグは挨拶、などなど意味不明なマナーやルールもすべては集団があるからこそです。
オーストラリアの先住民たちの部族は定期的にすべての氏族・胞族が集まって部族で大きな集会を開きます。集団になればなるほどルールは曖昧になり、「神」みたいなシンプルな全員にとって共通した概念が必要になります。
そのためにトーテムの紋章が重要になるわけです。この紋章は物や人の身体に入れ墨として入っており、すべての部族にとって身近であり聖なる存在です。
そして、全員で歌ったり踊ったりして混乱し、酩酊し、錯乱した状態であらゆる社会的なルールを破ることで神を感じるために、普段だったら絶対にしないことをみんなでやるのです。
それこそ不特定多数への暴力・セックス・トーテム動物を食べる、といったあらゆる禁を破るのです。普段の秩序的な生活とは反対に完全に無秩序な状態をつくりだします。
成人となった部族全員が本能的で熱狂的な集団の儀礼を2週間くらいバコーンと体験するわけです。
もうむちゃくちゃでわけがわからなかったけど、ヌルトゥンジャやチュリンガといった神聖な事物やトーテムの紋章から神だけは感じた状態になるのです。たぶん「やっぱりおれらってひとつなんだ」という謎の一体感があるんだと思います。
そして、そのまま規則正しい日常へと戻っていくわけですが、ここで重要になるのが各氏族が自分たちのコミュニティの近くにいるトーテムとして選んだ動物です。
どんなに神秘的な体験をしても日常に戻ればだんだんと忘れていくわけですが、身近にいるトーテム動物がこれを防いで常に神を意識させるのです。
しかも食ってますしね。普段はダメなのに。やっちまったなあという思い出がキョーレツに残ってるんじゃないでしょうか。
偶像崇拝を禁じるキリスト教プロテスタントでも、毎週日曜日は教会で礼拝を行い、聖書などは身近なところに置かせます。こうした聖なる物を身近に感じさせておかないと多分人は神の事を忘れてしまうのでしょう。
日常に非日常を最も効率よく意識させる方法は、二重性があることです。そこらへんのなんでもないものであっても、神が宿っていると考えられれば非日常が日常と一緒になるわけです。
トーテム動物やトーテム紋章はこうした日常に存在する非日常なのです。
科学や哲学の出発点も同じで、目に映るすべてのものが違うものであった場合、全部違うという結論しか出ません。
しかし、一旦同じものだとした場合は、何故同じなのに色が違うのか? 何故同じなのに争うのか?といった疑問が生まれます。
すべてを同一視してはじめて違うことに理由が必要になる。それが科学や哲学であり陰陽だというわけです。
この日常を非日常と二重に考えるというのも、合気道にめちゃめちゃ通じる話です。合気道だって一般的には武術のようなものだと思われているので、日常では使えそうもありませんが、
むしろ日常でこそ、合気道の要素を分解して考えてみるというのが修業のひとつだと言えます。このデュルケームの宗教生活の基礎でさえ合気道的に考えてみるということがひとつの合気道の応用になっています。
信仰というのはたぶんそういうことなんでしょう。なんか信仰するものがあるなら、それを色んなものに応用してみるのも面白いかも知れません。
ここまでの参考:デュルケーム『宗教生活の基本形態(全)』第2部 第7章
その他の参考文献
関連記事
武道から考える恋愛テクニック:相手を落とすにはまずモテるようになって、押し方と引き方を心得よう