合気を巡る冒険:「愛気」とは単なる理想に過ぎないか?
さてさて、200年も前から辿ってきたこのシリーズもこれで最後となります。
自分が合気道を始めた時、まっさきに気になったのが合気道の合気の意味でした。
古流武術においては避けるべき拮抗状態だった「合気」は、武田惣角と合気術によって先を取る合気へと進みました。
そんな「合気」を植芝盛平はどこに連れて行くのか?
楽しんで貰えれば幸いです。
目次
宗教とは弱さなのか?
そもそも、現代における合気の混乱の原因はだいたい合気道開祖・植芝盛平(以下盛平)のせいなんじゃね?という気がします。
大東流を合気柔術にしたり、合気道をつくったり、一番合気に関わったのはこのお方です。ちなみに大東流柔術に合気の名前を加えたのは出口王仁三郎(以下、出口)からの提案があったからだと言われています。
このような宗教に傾倒していくことは心の弱さや騙されやすさなどとつながっていると考えるられることがありますが、武道武術に関してはそう単純な話でもありません。
武道武術である以上はどんなに高尚なお題目を唱えようとも技が効かなければ価値がないからです。
例えばギャンブルとしてはあまりにも効率が悪いとされる宝くじを14回当てた経済学者という人がいますが、この人の手法は当たる確率の高い番号を計算することと、当たる可能性の高い番号を人を雇って買い占めてしまうというものでした。
参考:宝くじに14回当選した男性が実践した「宝くじの必勝法」とは?
こんな感じで物事に真剣に取り組んでいくと、神頼みでどうにかすることはまず有り得ません。もちろん最後は運次第という部分もありますが、そこまでつきつめていった先に信じる神と、浅い段階でただ神頼みするのは大きく違います。
戦前の盛平の弟子達は他の武道武術でもそれなりの実力を持った人々でしたが、多くの弟子が「開祖の神様の話はよくわからなかった」という話をしています。
参考:開祖の横顔―14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿
それにも関わらず多くの弟子がついてきたのはやはり宗教以上の実力があったからだと言えるでしょう。
そしてその実力を支えていたのが宗教だったとする証言や証拠がいくつかあります。
弟子の藤平光一の著書によれば、盛平が大東流を習っても勝てずに寝込むほどだった柔道家・鈴木新吾を大本教に入った後に逆に弟子入りさせていると書いています。
また歴史的に見ても1922年、武田惣角(以下、惣角)が大本教に指導に来たという記録がありますが、これは当時大本の信者であった軍関係者の指導を手伝って欲しいと盛平から頼まれたからだという武田時宗の証言があります。
参考:武田惣角と大東流合気柔術 改訂版
要するに当時の盛平は軍部の猛者たちへの指導に手を焼いていたということです。
しかし、その後に出口と共にモンゴルに渡り命がけの戦いをして銃弾の避け方を知ったり、1925年に剣道家との手合わせの後に黄金体体験という一種の悟りを経験したことでかなり実力がついたのだと考えられます。
そしてそのままの勢いで東京で軍部や由緒ある方々に指導を開始するわけですが、この頃から大東流以外の自分の流派を名乗り始めます。大東流から独立を試みるということは惣角から守ってもらえなくなるということでもあります。
当時の盛平は様々な場所で指導を行い、手合わせもかなりしたようです。師である惣角からすればまだまだだということになるのでしょうが、盛平自身の実感としては独立するのに充分な実力だと判断したのでしょう。
惣角との師弟関係においては金銭的負担も大きかったとされています。それを払う必要があったのは、実力的に未熟だったからではないでしょうか。
実力の差が大きく学ぶべきことが多くあったり、用心棒的な役割があれば多少の出費も問題はないでしょうが、そうしたことがなくなってくるとどうしても負担が大きくなってしまうのは仕方がありません。
盛平が自身の武道を立ち上げたということは、そういうことなのだと思います。そして、その強さを手に入れる過程には宗教が密接にかかわっていたのです。
このような前提のもとに、これから植芝盛平の技法としての合気と思想としての合気について解説してみたいと思います。実は技法と思想とは相互に関係しているのですが、とりあえずこれを大きく二つに分けてみていきましょう。
技法としての合気はどこへ行ったのか?
今の合気道には、大東流の頃のような「合気をかけて〜」といった指導もなければ、合気と名のつく技も合気投げや合気落としくらいしかありませんし、それも積極的に指導されているとも思えません。
だからといって合気をなくしてしまったと考えるのは早計です。盛平が大東流合気柔術の時代に竹下勇に指導していた時、合気と呼吸を同じような意味で使っていました。
そのことから考えると、合気道における技法としての「合気」は「呼吸」へと置き換えられたと考えるのが自然だと思います。
なぜそんなことをしたのでしょうか?
こうした変換を行った理由のひとつにはおそらく言霊をはじめとする宗教的な思想があります。大本教の出口は言霊をすべての根源と考え、言葉によって歓びや栄え、平和も生まれるし、剣や悪魔や滅びも生まれてくるとしていました。
この考えを盛平は武道にあてはめていったと考えられます。その証拠として戦前の弟子、鎌田久雄による次のような証言があります。
私が教えをいただいた頃は、いわゆる「必殺」といって、精神面は別として非常に厳しいも のでした。しかし後半になってからは、その法はアーオーウーという言霊(ことたま)による教えに変わってきました。先生は毎朝神殿で礼拝してから稽古を始められました。こんなことをいっては僭越かもしれませんが、大東流が源流にあったかもしれませんが、信仰による神示によって先生が神懸状態になり、会得なさったものが多いのではないでしょうか。
指導内容に明らかに変化しています。呼吸というのは、この言霊を生み出すイキと同じ意味で捉えることもできることから、盛平は著書『武道練習』の技法真髄として呼吸と言霊についてこのような説明をしています。
天地の呼吸と合し聲と心と拍子が一致して言霊となり一つの武器となって飛び出す
植芝盛平著『武道練習』より抜粋
これを単に宗教的発言と見ることもできます。確かに出口の言霊の思想と同じようにも読めますが、同時に大東流の合気を通して見ると、これは気合術のことでもあるとも言えます。盛平は宗教と武道をこのようにひとつにつなげて考えていたと思われます。
こうした理由から盛平は技法については「合気」よりも「呼吸」を好んだのではないでしょうか。
その代表的な例としては現在でも合気道で行われている座技「呼吸法」があります。正式名称は「呼吸力養成法」ですが、2名が正座した状態で向かい合い、受けは捕りの両手を掴んで、捕りが受けを崩すという稽古です。
これはまさに合気(拮抗)した状態から、いかにして大東流で言う所の合気(先の先や後の先)をかけるか?という稽古です。手を完全に捕られた状態(後の先)から行うこともあれば、捕られる前(先の先)からかけていくこともあります。
こうした合気の稽古の名称が呼吸法であるということが、合気が呼吸になったというひとつの証拠です。普通に考えても技法として大東流合気柔術でも骨子であったはずの合気をなくすという選択肢はあり得ません。
また盛平が合気を「先」を取る手法として考えていた根拠としては直弟子である五月女貢師範に語ったとされる「合気の位(くらい)」の話があります。
これは空を飛ぶワシが水面下の魚や森を逃げるウサギを捕えることができるのは、地上ではわからない動きを上空から見通しているからであるとして、大自然からこうした「合気の位」を学ぶべきであるという話しです。
参考:五月女貢『伝承のともしび -合氣道開祖 植芝盛平の教え-』
これも一種の先の取り方についての話であり、盛平が武産合気などで語っている「森羅万象から神習う」(この世のあらゆるものから学ぶ)という言葉の解説でもあります。
武道的な「先」についての話を盛平は「呼吸」として神道的な宗教と融合させて語っていたというこです。単純な先の話ではなく呼吸には陰陽としての意味もあり言葉に深みを持たせるという意味でも「呼吸」のほうが都合が良かったのかも知れません。
戦前から多くの弟子達が「開祖の神様の話がさっぱりわからなかった」「はやく稽古がしたくてしょうがなかった」「話が長くて正座する足が痛かった」といった話があります。そして後になって「もっと聞いておけばよかった」といった話もしています。
参考:開祖の横顔―14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿
こうした話からわかることは、植芝盛平は稽古の時間に神様の話をしていたということです。その反面、決して大本教などに弟子を勧誘することはなかったそうです。
これはつまり盛平にとって神様の話は実際に稽古の一環だったのではないかとマツリは考えています。
盛平の語録でもある『武産合気』も白光真宏会青年合気道同好会という団体で稽古している時に語ったことを記録しているそうです。
つまりは盛平の思想は武の技法と密接に結びついているということです。
思想としての合気はどこから来たのか?
『武産合気』で盛平は自身が語る合気についてこのように説明しています。
昔から、武道は誤って人名を絶えず殺しあう方向に進んできたのであるが、合気は人命を救うためにあるのである。すなわち人殺し予防法が合気の道である。人を殺すなかれが合気であり、「合」は「愛」に通じるので、私は、私の会得した独自の道を「合気道」と呼ぶことにしたのである。したがって、従来の武芸の人々が口にする「合気」と、私のいう「合気」とは、その内容、本質が根本的に異なる。このことを皆さんはよく考えて欲しいと願うものである。
高橋英雄編集『武産合気』より抜粋
従来の武芸者が意味する「合気」とはつまりこれまでの「先」を取ることや「拮抗」という意味での合気です。
パイエ由美子による合気道の思想に関する研究によれば戦前と戦後の思想で変わったことのひとつとして「合気とは愛なり」を強調するようになったとされています。
参考:パイエ由美子『植芝合気道思想(1943年以降)-継承と展開-』
合気とは愛なりという考え方の原型として植芝盛平は戦前にも和合を説いていました。
これは竹下勇に対する指導にしてもそうですし著書である『武道』などにも記載があります。相手と和合することによって一体となり自由に技を施すことができるという考えはいわゆるこれまでの合気の技法の理想的状態として示されています。
この考えは戦後にも変わらず語られていますが、当時は一方で和合を口にしながら軍部への指導も行っており、戦争に向かう弟子達には危険が伴う技も指導していました。
やがて終戦が近づくと盛平はそれまでの姿勢を反省して茨城県岩間へと移り表舞台から去ります。
そして戦後、再び動き出した盛平について息子の植芝吉祥丸による著書『合気道技法』ではこのように語られています。
昭和二十年、第二次世界大戦終了と共に、深い反省と謙虚な日常に明け暮れた翁は、また一段と高い心境に飛躍して、「合気の奥義は大きく和することであり、絶対無限の宇宙の実相に通ずる道である」と喝破するに至った。
これまで掲げていた相手との和合からさらに一歩進んで、大きく和することこそ奥儀であるということです。こうした考えも宗教的な発想と思うと「はいはい」という感じのお題目に聞こえるかも知れませんが、武としての意味を見出してみましょう。
剣の一つの境地に「相抜け」というものがあります。これは1600年代に無住心剣流の開祖であった針ヶ谷夕雲(はりがや・せきうん)が残している極意です。
相抜けとは一種の拮抗状態の合気を脱する方法で、互いに斬り合った時、互いに相手を傷つけることなく抜けること、あるいはお互いに戦わずに剣を納めることだとされています。これも一種の合気(拮抗)状態に対する回答と言えます。
これを考えた針ヶ谷夕雲の弟子であった小出切一雲は自身の書『天真独露』において次のように説明しています。
兵法諸流、先を取るを以て至要と為す、恐らくは不可なり。我れ先を好めば則ち敵もまた先を取らんと欲す。此れ則ち先々の先なり。是の意にして合気之術なり
この書では合気之術を先を取る手法として挙げていますが、そうした先の取り合いは恐らくは不可だとしています。相対的な勝負の仕方では絶対的な先は取れないということです。
夕雲も勝負においては最終的には刀ではなく心が問題になるとしています。これは猫の妙術や不動智神妙録といった武道の奥儀とは何か?という話とも通じる話です。要するに相手(敵)を意識(執着)している状態では限界があるということなのです。
戦後の盛平がよく言っていた言葉に「合気道は最初から勝っている」という言葉があります。
戦前から弟子入りした奥村繁信は盛平の先に対する考えをこのように語っています。
合気道の技法についての質問
――〝後の先〟ということでしょうか?
違うんです。確かに一見すると〝後の先〟になるんですけど大先生は「先を、三つ(先 先の先、対の先、後の先)に分けちゃいかん。それでは合気道は駄目だ。合気道の先は一つ、 いつもこっちが先を取っているんだ」と仰っていました。この辺りを説明するのは難しいで すね。ただ精神状態が違う。「だから合気道はこちらから攻める技がない、必要ないんだ」と言われていました。ですから形の上では後の先だけど、気持ちの上では先々の先というの が私の考え方です。
――何となくニュアンスは判るのですが……、難しいですね。
そうですね。私も子供の頃から剣道をやっていたものですから、なかなか〝先の先〟というのが抜けなくて、一度外務大臣を務めた園田直さんと一緒に開祖に向かって「(合気道は)やっぱり後の先では駄目ですか」と聞きに行ったら、「お前たちは何年やっているんだ!」と怒られたことがあります(笑)。
合気道はこれまで大東流が合気で目指してきた先の先(気合)や後の先(合気)ではなく、絶対の先なのです。
そこで必要になってくるのが「愛」というわけです。戦前の盛平は和合することにより、相手の先を取り相手を操ることができるとしていました。しかし、さらにそれを発展させて大きく和するところにあるのが愛だと言えます。
愛と一口に言っても、盛平が説く愛というのは恋愛とか愛情とかの話ではなく、天地を創造した神の愛です。要するに全ての生命を生み出した神の愛です。
それは即ち合気道の思想である神人合一のことでもあります。神と一体になることであり、神と一体になったということはすでに勝っているということです。
合気とはこの神の愛と一体になること、つまり絶対の先を取ることに繋がるのです。
1925年「黄金体体験」という悟りを開いた直前に、盛平は海軍将校の剣道師範と対戦していました。その時の回想が早乙女師範の著書に残されています。
それによれば相手はかなりの実力者であり、相手に恥をかかせるような勝ち方もできず、また負けるわけにもいかないという状況だったそうです。その時に盛平は相手と争うことをやめてただ相手を見ている内に相手と一体になるような感覚になります。
そうしている間に、相手は疲れ果てて降参し盛平に対して「技以上の剣術の奥儀を植芝先生の中に見ました」といったことを言われたのだそうです。そして、そのあと井戸で水浴びをしている時にあの「黄金体体験」に至るというわけです。
参考:五月女貢『伝承のともしび -合氣道開祖 植芝盛平の教え-』
こうした経験があったからこその「和合」です。そしてさらにその上の次元として「愛」があるのです。逆にこうした経験もしてないのに「和合」やら「愛」やら言われても誰もついてはいかなかったでしょう。
和合やら愛やらで絶対の先が取れると言ったってなんのこっちゃわからんという人のために、可能な限りわかりやすい説明を試みたいと思います。
例えば生物界における人間を考えると、明らかに他の生物とは違った進化をしています。多くの他の動物が自身の外形的な能力に特化していったのに対して、人間は頭脳を進化させ二足歩行に特化しました。これは他の動物と争わない進化であり、結果的に人間が覇権をとっているわけです。
YouTuberとしても知られる起業家のえらいてんちょうさんの著書『しょぼい起業で生きていく』では、しょぼい起業について「普段の通学や通勤のついでに物を運ぶ」「店に住んで家と兼用する」「料理を多めに作って余ったものを売る」といった普段の生活を資本化してしまうこととしています。
こうしたことも一種の「争わない」手法と言えます。自分の生活と和合するといってもいいでしょう。こんな感じで相手と同じ土俵で争わないことが「最初から勝っている」ということにつながっていくのではないでしょうか。
和合するということは、現時点で最もベストな対策を見つけ出すということです。戦後の盛平は弟子たちが自分がやってみせた技と全然違うことをしていても怒らなかったそうです。逆にお茶の濃さや温度といった細かいことには非常に厳しかったそうです。
そういった日常の中で最も適した状態を見つけていくことこそが重要だと考えていたのかも知れません。もっとわかりやすく言えば日常生活の武道化といった感じでしょうか。
というわけで、個人的には植芝盛平の「合気」は思想に偏ったわけでもなく、技法に集中したわけでもなく、まさしく技と思想を和合させたものだと思っています。
ひとつの絶対的理想としての「合気」である「愛気」こそが植芝盛平の合気です。
合気道の精神
合気とは愛なり。天地の心を以って我が心とし、
万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂することこそ武の道であらねばならぬ。
合気とは自己に打ち克ち敵をして戦う心なからしむ、
否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり、
而して武技は天の理法を体に移し霊肉一体に至るの業であり道程である。
合気道開祖・植芝盛平
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あとがき
いかがだったでしょうか? 200年前から辿って行った合気を巡る冒険は「絶対の先」にたどりついたところで一旦終了となります。
前に記事にもした通り、人の証言ってのはあんましアテになりません。でも昔の武道武術にはそれくらいしか残ってないんですよね。てなわけで結論ありきで情報をまとめて、まったく違うことをさも真実かのようにまとめ上げることも可能なわけです。
ただ今回の記事を書くに当たっては、そんなに結論を決めて書いたわけではなく、調べながら書いてて気づいたらこうなったって感じです。個人的には合気道の合気がなんなのかってことを整理できたつもりですが、
結局のところ知らん人に「合気」ってなに?って聞かれたらやっぱ「愛」だよとは答えられねーなと思います。
境地が「絶対の先」だったからといって、合気道が最高かっつーとそういうわけでもないでしょう。あくまで境地なんで、目指し方は人それぞれだし、別にそんなとこまで求めてないよって人もいるでしょう。
まあ、一応は合気について整理できたとは思ってるので、なんかの参考になったら幸いです。
以上
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