合気道開祖とその関連事項の年表

開祖年表

ぼくが考える最強の年表、的なやつです。

 

合気関係の記事を書いてた時にわけわからんくなってきたのでまとめたものです。ついでなんでなんかの参考になったらいいなってことで置いておきます。

 

違ってるとこなどあればソースと一緒にコメントなどで指摘してもらえると助かります。各弟子の入門時期などはかなり適当です。

1883 明治16年

12月4日 

和歌山県田辺の富裕な農家に長男(姉3人・妹1人)として誕生

父與六/与六は村会議員

母ゆきは甲斐武田氏の末裔糸川家の出

生家は200アールほどの土地

1884~1889 明治17~22年

少年時代

両親が心配するほど病弱

1990~1995 明治23~28年

7歳頃

地蔵寺(古義真言宗仁和寺末)護摩堂で私塾を開いていた藤本密乗師から四書五経を学ぶ

父から相撲・水練など身体鍛錬を受ける

 

時期不明

田辺小学校に入学し那須多三郎に学ぶ

 

1893年頃

秋津村宝万寺にて参禅

1896 明治29年

新設の県立田辺中学校に入学するが一年を経ず病気で中退

中学校でのちの東北大学総長、佐武安太朗と出会う

吉田珠算研究所でそろばんを学び講師になる

田辺税務署に勤務

1897 明治30年

各流の武術遍歴が始まる(合気会)

1901 明治34年

「磯事件」(漁業法改正に反対する漁民の権利運動)に加担、税務署を退職

 

9月頃(資料によっては1902年)

上京 東京日本橋の問屋街に住み込む

1902 明治35年

春頃

父与六の援助により文房具卸売業「植芝商会」を設立

起倒流柔術を戸張滝三郎から学ぶ

戸張滝三郎は1894天神真陽流柔道免許皆伝、1887年講道館柔道開始、起倒流の修業歴はなし、柔道か?

神田飯田町で神陰流剣術を学ぶ

天神真楊流(てんじんしんようりゅう)を戸澤徳三郎から学ぶ

参考:天神真楊流(Wikipedia)

 

夏頃

商売は成功するが、不摂生が祟って脚気(ビタミン欠乏症)を患い、店を従業員に譲って無一文で帰郷療養

 

10月
2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚

1903 明治36年

12月末
日露戦争の為、大阪第四師団管下第三七連隊に入営・身長5尺1寸5分(約156㎝)体重20貫(75kg)

1904 明治37年

柳生心眼流柔術を中井正勝に学ぶ(資料によっては1905年)

参考:柳生心眼流(Wikipedia)

1905 明治38年

伍長昇進

銃剣は隊内随一、「兵隊の神様」と呼ばれる(植芝盛平伝、武の真人)

満州戦線の得利寺その他において戦功をあげたことが軍曹昇進の理由とする資料もある(植芝盛平伝)

 

8月
第2軍大阪第4師団和歌山歩兵第61連隊に配属され出兵するも戦闘には参加せず9月5日終戦

1907 明治40年

上官から陸軍予備士官学校入学をすすめられるが、父の反対で故郷に戻る

父が自宅納屋を改造して柔道場を作り、田辺来遊中の柔道家・高木喜代市(のち講道館9段)に高額で指導依頼し近隣の青年たちと柔道を学ぶ

高木喜代市は1894年生まれ、この時に同じく鈴木新吾とも稽古し、大東流を習った後、再び挑むが敗北、その後大本を経て更に高みに行き鈴木が弟子になる

井上鑑昭は10歳の時に高木喜代市に師事したとの記録あり

1908 明治41年

中井正勝の手を経て坪井政之輔氏より後藤派柳生心眼流の免許を受ける(合気会・工藤龍太・植芝盛平伝・合気道一路)

1909 明治42年

南方熊楠の神社合祀反対運動に参加、田辺は神社統合数が全国最小に

1910 明治43年

1月18日

長女松子出生

1912~1914 明治45~大正3年

西ノ谷村の北海道開拓移民団体「紀州団体」の団長として、

3月29日

田辺を出発

5月20日

北海道北見国紋別郡湧別村白滝原野増画地に入植

のちに遠軽村⇒遠軽町⇒白滝村⇒遠軽町と移住

最初の2年間は大不作だが、開祖の着想企画によりハッカ耕作、造材事業、馬産、酪農振興などで定住の見通しが立

小学校開設・衛生組合設立・上白滝神社増築などを手がける

1915 大正4年

北海道遠軽町の久田旅館で吉田幸太郎から大東流柔術武田惣角を紹介される

1ヶ月滞在して教授を受ける

1916 大正5年

白滝村に道場をつくり武田惣角を招待

 

3月
惣角から手ほどきを受け大東流の秘伝奥儀之事(内容は三拾六ヶ条裏表)授けられる

1917 大正6年

ハッカ、馬鈴薯、ゴマなどの畑作に成功、造林造材事業も拡大

 

5月

白滝に山火事を発端とする大火災が発生し開拓地がほぼ全焼

 

7月13日

長男武盛出生(植芝盛平伝)

井上鑑昭が大本教に入信

1918 大正7年

推されて上湧別村村会議員に当選

1919 大正8年

11月中旬

父与六が危篤の連絡を受ける

 

白滝の土地家屋など全財産を惣角に譲渡

 

12月27,8日頃

京都綾部の大本教で出口王仁三郎と出会う

1920 大正9年

1月2日

与六死去(76歳)

 

1月4日

綾部より帰郷、父の死により錯乱

 

周囲の反対を押し切って一家で京都府綾部へ移住、大本教入信

大本本部西門外の借家に仮住まいした後、出口の計らいで大本聖域内の本宮山麓の一軒家に移転

植芝塾開設(合気道一路)

 

8月23日

長男武盛死去

 

9月10日

次男国治死去

1921 大正10年

2月11日

第一次大本事件起こる

 

6月17日

大本事件により逮捕されていた出口王仁三郎保釈出獄

 

6月27日

三男吉祥丸誕生、命名は出口王仁三郎による

 

秋頃

自宅に道場“植芝塾”を開設

 

井上鑑昭が植芝塾に入門

1922 大正11年

保釈された王仁三郎を助けて大本教の復興

農園を開墾、植芝塾の武術教授とあわせて武農一如の理念を実践

言霊の研究に没頭

気・心・体一致の境地を志向しはじめる(植芝盛平伝)

 

4月

綾部に惣角一家来る

 

7月7日

母、ゆき死去(71)

 

8月

出口王仁三郎の命名、惣角の許しを得て大東流合気柔術に改名

武田惣角より合気柔術秘伝奥儀之事(内容は百拾八ヶ条裏表、合気之術裏参拾ヶ条、秘伝奥儀参拾六ヶ条裏表)及び大東流合気柔術教授代理を許される(工藤龍太)

大東流英名録に合気柔術の名称登場(工藤龍太)

「合気武術」などを名乗るようになる

 

9月15日

大東流教授代理、進履橋、新陰流兵法之書、三学を授かる(工藤龍太)

大本の食料自給体制責任者「農園世話係」(幹部職)に就任し農園900坪の開墾を行う

1924 大正13年

2月13日

王仁三郎と共に理想国家建設の為、モンゴルに行く

 

2月15日

奏天に着く

張作霖の手引きにより大馬賊・盧占魁(ろせんかい)の軍と内外蒙古独立軍を結成

戦闘で相手からの「光のツブテ」を察知して弾丸を避ける

 

6月20日

盧占魁の裏切りを恐れた張作霖によって吉林省白音太拉(パインタラ)付近で捕まる

盧占魁は銃殺

銃殺刑にかけられかけるも九死に一生を得る

 

6月末

本国送還

この頃、槍術の稽古を開始

1925 大正14年


春頃

黄金体体験(舞鶴出身の有名な剣道教士の海軍将校と対戦後)を経て「我即宇宙」の妙諦

九州など各地で合気武術の指導にあたる

胃腸・肝臓の持病

浅野正恭、秋山真之、(両名とも後の海軍中将)入門

富木謙治、入門(この頃の稽古は大東流の影響が強いと語る)工藤龍太

柳原白蓮、大石ヨシエといった女性も入門

浅野正恭の紹介で植芝を知った海軍大将竹下勇に招かれて上京


12月1日

伯爵山本権兵衛(元総理)等各界要人の前で演武を披露

片方に積まれた米俵の山を、槍を使って反対側に積み替えるパフォーマンスで山本権兵衛に「明治以来はじめて生きた槍を見た」と評価される

翌日、山本権兵衛が訪問し青山御所で21日間の講習会(合気道神髄・植芝盛平伝)

貴顕人の前での演武、受けは井上

山本の依頼により青山御所で侍従・武官に指導

竹下勇、入門

 

柳生新陰流、下条小三郎と交流を持つ(合気道探求)

バラモン修行者に挑まれた出口の代わりに塩水を大量に飲む、吉祥丸によれば、これが原因で健康を損なった一因となっている

1926 昭和元年

武道の新境地を開く。本格的に「合気の道」と呼称する(合気会HPより)

 

竹下大将の招請により再度状況、四谷愛住町の梅田潔邸を連絡所とし、宮中、陸海軍、財界関係者への指導

その後、場所を品川森村市左衛門邸の中に移しながら長期滞在しての東京での指導を行う

 

内蔵に変調を来して綾部に戻る

1927 昭和2年

2月

竹下大将をはじめ東京で指導を受けた人々から請われて再び上京

王仁三郎の勧めもあり大本教から離れる

京都府綾部から一家で上京し芝白金猿町に居住

近くの島津公爵邸の下屋敷を改造した道場で、各界名士の指導

新陰流19世柳生厳周の高弟、元海軍中佐・下條小三郎から柳生新陰流剣術を学ぶ

後援会「相生会」結成、相生流合気柔術を名乗る(以後、合気武術、合気武道など)

海軍大学の嘱託教授を依嘱され、以来十余年同校に於て教鞭をとる

1928 昭和3年

1月

芝三田綱町にある内海勝二男爵邸の隣の借家を提供されて転居し八畳二間を改造し仮設道場に

高橋三吉、百武源吾、近藤伸竹(全員後の海軍大将)入門

 

2月17日

竹下勇日記に本日より相生流合気柔術と称することにせり(約一年間相生流の名を使った)

 

高橋が海軍大学校長だったため大学の武道教授として招聘され、1937年まで教授

学生柔道界のホープと呼ばれた笠原巌夫、阿部信文、入門

近くに慶應義塾大学があり、福沢三八他大学関係者も多く入門

吉祥丸、赤羽小学校に入学

1929 昭和4年

2月

芝高輪車町にある泉岳寺脇の家に転居(仮道場)

教授対象を厳しく制限(皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部層・入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人)

鎌田久雄、入門

歌舞伎役者、六世尾上菊五郎、間を習う為(参考:合気道開祖 植芝盛平伝)

猿之助、松居松翁、中里介山、入門

西見武、東京での内弟子第一号

 

6月14日

竹下勇日記に合気武術の記載

1930 昭和5年

牛込若松町、旧小笠原家下屋敷後を借りて道場建設

その間、目白台(下落合)に転居(仮道場)

岩田和也(一空斎)、入門

井上鑑昭、岩田和也、鎌田久雄、金子規矩が内弟子に

植芝守高名義「武術の極意ー合気武術の威力」日本魂ー国民精神作興雑誌ー青少年団研究機関ー新宗教至誠教機関2月号(工藤龍太)

 

4月
専門道場創建の為、建設募金委員会発足

 

10月

嘉納治五郎が来訪し、盛平の演武に感動し、講道館より望月稔他門下生数人を研修のため派遣

「これこそが私が理想とする武道である」

望月稔、武田二郎、入門

 

三浦真陸軍少将が道場破りに来て感嘆して入門、その依頼で陸軍戸山学校への指導が決まる

1931 昭和6年

4月
牛込若松町102(現新宿区若松町102)の皇武館道場落成(80畳)月謝は講道館の10倍の30円(合気道一路では3月に道場開き)

軍部の要請を受けて指導(陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校)

海軍大学校、陸軍大学校、海軍機関学校、海軍兵学校、陸軍憲兵学校、陸軍兵務局、朝日新聞社、各警察署、警察特別隊、大阪住友クラブ、東亜経済調査局、工業倶楽部有志会、塩水港製糖K・K、満洲国建国大学、満洲国神武殿(合気道神髄)

大東流免許:八拾四ヶ条御信用ノ手(工藤龍太)

この免状が久琢磨のものと同じ文面なので解釈総伝之事まで習っていることになる(佐藤)

講習会案内状には大東流合気柔術並に合気武道とある

この頃の指導で一ヵ条、二ヵ条、四方投げ等、神の名前と働きを関連づけ始める

柔道和歌山県代表で三段だった湯川勉は講道館に乗り込むもコテンパンにやられて腹いせに近所の皇武館に道場破りをしにいって開祖に腕を掴まれただけで動けなくなりその場で入門を決意、保証人を集めて布団持参で許されるまで玄関にいた

村重有相、湯川勉、白田林二郎、入門

新橋薫、湯川勉、白田林二朗は内弟子

牛込は地獄道場と畏怖される

大阪に支部道場多数開設(合気道一路)

1932 昭和7年

東京では飯田橋に富士見町道場(畔柳久五郎斡旋)、小石川大塚に大塚道場(野間清治講談社社長提供)、他数カ所道場ができる

大阪では曽根崎道場、吹田道場、茶臼山道場ほか数カ所の支部や支部的拠点ができる

富田建治大阪府警察本部長(のちの長野県知事、内閣官房長官)と森田儀一警察署長らの推薦によって管下全警察署に出向教授

朝日新聞の久琢磨の依頼で大阪朝日新聞本社でも指導(旭流)

中倉清、入門一時期植芝家の養子でもあり、この影響で皇武館道場内に剣道部が創部、白田、橋本、船橋などの内弟子が中倉から指導を受ける

望月稔に大東流合気柔術奥伝印可の巻物二巻を授与

 

8月13日

植芝守高を会長に武道宣揚会設立

 

赤沢善三郎、米川成美、塩田剛三、星哲臣、杉野嘉男などが皇武館に入門(植芝盛平伝)

1933 昭和8年

4月

吉祥丸、東京府立六中(現・新宿高校)入学

 

5月

兵庫県朝来郡竹田町に竹田道場開設される、武道宣揚会の道場だが多くの内弟子や武道家が集まる

技術書『武道練習』出版

 

井上鑑昭が満州に渡る(合気道探求)

外郭団体として門下生の懇親会、正眼会が設立

1934 昭和9年

阿部謙士郎を小指だけで抑える

阿部謙四郎、杉野嘉男、入門

1935 昭和10年

記録映画『武道』(大阪朝日新聞社製作 久琢磨監督)収録

第二次大本教弾圧事件

植芝守高名義で皇國武道論を月刊維新11月号に発表

武道宣揚会の関係で井上鑑昭と村重有利などの弟子を中国、朝鮮、満州に派遣

 

12月8日

第二次大本事件発生

1936 昭和11年

6月

武田惣角が大阪朝日新聞社に来訪するも盛平は合うことなく東京に去る

田中万川入門、井上鑑昭より指導を受ける。

 

10月

吹田市駅前玉屋旅館にて田中万川と初会見

 

11月

田中万川、吹田市内に合気道道場を設立、井上から指導を受け、植芝盛平は二回来訪

 

富木謙治、新京に移住し大同学院、関東軍、宮内府で指導(合気道探求)

1937 昭和12年

海軍大学校で週に一度若手将校に合気武術の指導

参考:源田実「盧溝橋事件勃発」『海軍航空隊、発進』文藝春秋〈文春文庫〉、1997年8月(原著1961年)

鹿島神道流を学ぶ

満州軍に指導

引土道雄、入門

 

7月7日

盧溝橋事件が発生、支那事変(日中戦争)へ

 

12月5日

嘉納治五郎の紹介で鹿島神道流宗家・吉川浩一郎に弟子の赤沢善三郎と共に入門

満州国武道顧問・建国大学武道顧問就任・合気武道は建国大学の正課に

1938 昭和13年

賀陽宮殿下、「皇武館」道場御台臨、演武を御高覧

陸軍戸山学校校長・賀陽宮殿下の要請により技術書『武道』作成

 

7月
陸軍中野学校が開校し合気道教官を務める

陸軍省兵務局嘱託勤務(合気道神髄)

満州建国大学が創立、富木謙治が合気道を指導

1939 昭和14年

満州国公開演武会

合気道が満州建国大学正課になり、顧問となる

武道振興会臨時委員となる(合気道神髄)

元力士天竜三郎を投げる

田中万川召集のため吹田道場閉鎖

天竜、入門(3ヶ月集中的に修業)

藤平光一、平井稔、入門

 

中倉清、羽賀準一、中島五郎蔵といった剣士が出入りしており、皇武館剣道部として各種武道大会で活躍

吉祥丸も鹿島神道流を学んでいたため、合気道と剣の関係が密接になる

 

4月

吉祥丸、早稲田大学政経学部予科第二学院に入学(開祖は神道系の大学への進学も検討していた)

1940 昭和15年

4月30日

財団法人皇武会発足、厚生省より寄付行為の認可

初代会長・竹下勇、副会長・陸軍中将林桂、理事に公爵・近衛文麿、陸軍中将前田利為、東京帝国大学医学部教授二木謙三、伍堂卓雄、藤田欣哉、富田健治、岡田孝三郎ら

高柳蓮子の紹介で知り合った宮坂照蔵が二万円寄附

新たに陸軍大学、憲兵学校、海軍兵学校、陸軍機関学校などで指導

茨城県岩間への合気神社建設に着手

富木健二、湯川勉に初の八段授与

 

満州へ

 

吉祥丸、剣道部入部

1941 昭和16年

竹下勇海軍大将の働きかけで斎寧館で天覧演武、重症の黄疸により担がれたまま会場入りするも演武をする、受けは塩田剛三

憲兵学校にて指導

陸軍学校の生徒30人が植芝を試す為に襲いかかり返り討ちに会う(首謀者・荒川博)

国民体力審議会臨時委員となる

大澤喜三郎、入門(※)藤平光一の数ヵ月後に入門とあるので時期が合わない?

満州国神武殿顧問になる(合気会・合気道一路)

岩間に野外道場の設置をはかる

 

満州へ

 

12月
太平洋戦争勃発

1942 昭和17年

皇武会が戦時統制策により大日本武徳会に統合される

皇武会の総務長になった平井稔を代理人として派遣・皇武館道場長は吉祥丸に

武徳会合気道部が発足“合気武道”から正式に“合気道”を名乗る

茨城県西茨城郡岩間町に転居「合気苑」

大阪で合気道を知った阿部正が岩間で入門

この頃、砂泊諴秀も皇武館に入門

4月
満州国建国十周年奉祝大武道大会、新京神武殿で演武

1943 昭和18年

5月3日

武田惣角死去(84)、開祖は大病を患い参列はせず

岩間町に合気神社建立

1945 昭和20年

東京大空襲

吉祥丸、道場が燃えないように消火活動

 

第二次世界大戦終了

財団法人皇武会道場の活動停止

弟子たちが戦地から帰還

合気神社附属としての茨城支部道場完成

吉祥丸、合気道の一般普及を打診、許される

1946 昭和21年

岩間で近郷の青年たちを指導しつつ武農一如の生活を送る

塩田剛三が帰国し岩間で指導を受ける

吉祥丸、早稲田大学政治経済学部を卒業

牛込道場は罹災者を受け入れていた為、稽古は行われず

小林裕和、入門

井上、親和体道創設

 

7月
斉藤守弘が岩間合気修練道場に入門

1947 昭和22年

有川定輝、甲賀流忍術第14世藤田西湖に紹介状を書いてもらい入門

財団法人皇武会を改組「財団法人合気会」とする(合気会)

1948 昭和23年

2月9日
財団法人合気会設立・初代会長富田健治(本部は岩間)

正式に「合気道」を名乗る

吉祥丸、合気道本部道場の道場長に就任

 

11月

吉祥丸の第一子、吉照誕生

1949 昭和24年

1月

合気座談会開催(毎月)

 

8月1日

西医学財団法人西奨学会の養成で神奈川県二宮、米倉寺で講演会と実演

 

10月2日

横浜西会の養成で横浜市西区横浜市教育会館で講演と実演

 

11月15日~29日

京都、大阪で公演と実演、希望者に指導

 

時期不明

植芝吉祥丸を中心に本部道場の日常稽古開始

吉祥丸、大阪商事(後のみずほ証券)入社

磯山博、入門

1950 昭和25年

1月23~3月19日

関西で講演会(合気会報)

 

4月

合気会機関紙・月間『合気会報』発行開始

 

6月25日

朝鮮戦争勃発

吉祥丸、株で100万ほど稼ぐ(当時の月給は3500~9000円)

 

8月24日~9月16日

京都警察柔道職員、近畿柔道連盟、各地、合気会京都出張所などで指導

 

12月10日

茨城県荒川沖、講演と実演

 

全国の各道場を訪問し指導する

多田宏、入門

1951 昭和26年

田中万川が一ヶ月岩間で個人指導を受ける

山口清吾、入門

西尾昭二、合気会本部道場入門

 

4月2日

合気道二代道主植芝吉祥丸の次男として守央、出生

 

10月

大阪で田中万川に再会し道場建設

 

11月
岩間で田中万川を一ヶ月、日に四回指導

 

富木謙治、講道館顧問として講道館に合気道部門を作りたいと打診、断られる(昭和27年かも? 合気道一路)

1952 昭和27年

段位制導入

 

2月末
田中万川が合気会大阪支部道場設立

 

引土道雄、合気道熊野道場設立

阿部醒石、入門、開祖に書を指導する

多数師範を欧米に送る

1953 昭和28年

1月

田中万川による財団法人合気会大阪支部道場発足、大阪に滞在して1ヶ月指導にあたる

田村信喜が合気会本部道場に入門

参考:FAAB合気道HP

合気会誌を「合気」に改称、小冊子として年4回発行

 

吉祥丸、造船関連の株で大損、大阪商事にも被害を出し店頭から総務部庶務課に移動、借金は分割払いに

1954 昭和29年

合気道の支部結成や大学のクラブ結成をはじめる

本部道場を東京に移転し本格的な普及を図る

日本総合武道大会(長寿会主催)で塩田剛三が優勝

防衛庁合気道演武を見た佐々木の将人が入門

小林保雄が本部道場に入門、明治大学に合気道部を創設

加藤弘、アンドレ・ノケ、黒岩洋志雄、入門

1955 昭和30年

植芝吉祥丸、財団法人合気会理事就任、専務理事に

 

6月10日

新宿区筑土八橋に塩田剛三、「養神館」道場落成、吉祥丸はこれを期に演武の公開を決意

吉祥丸の頼みで演武の公開を開始

 

9月

合気会による戦後初の一般公開演武会が東京日本橋高島屋屋上で行なわれる、吉祥丸は演武公開10日前に初めてとなる弟子による演武を計画していることを盛平らに打診。激怒したものの合気会のために承認

 

各国大使を招いての公開演武大会

 

野呂昌道、浅井勝昭、五月女貢、入門

1956 昭和31年

藤平明、山田嘉光、藤田昌武、入門

 

吉祥丸、借金完済、大阪商事を退社

1957 昭和32年

植芝吉祥丸により単行本「合気道」刊行(合気会・合気道一路)

1週間後トラック一台、約3000部の返品、武田流合気柔術を騙る書店への詐欺の影響、その後売れ始める

 

1958 昭和33年

渡邊信之が合気会本部道場入門

山口清吾師範、ビルマに合気道指導のため出国(合気道一路)

千葉和雄、入門

1959 昭和34年

4月

合気道新聞創刊

 

今泉鎮雄、金井満也、栗田豊、丸山修二、菅野誠一、入門

1960 昭和35年

1月

ドキュメンタリー映画『合気道の王座』製作

デリー・ドブソン、市橋紀彦、入門

 

5月

山野ホールにて第一回合気道演武大会開催

これを皮切りに、毎年一回演武大会が日比谷公会堂、日本武道館と会場を変えながら開催される

 

11月3日

合気道創始の功績により紫綬褒章を受賞

1961 昭和36年

2月

ハワイ合気会の道場新築に伴ってハワイでの指導

 

6月

関東学生合気道連盟発足(合気道一路)

 

9月

関西学生合気道連盟発足(合気道一路)

 

10月

全国学生合気道連盟発足(合気会・合気道一路)

 

12月

防衛庁合気道連合会(現・防衛省合気道連合会)発足(合気会・合気道一路)

ドキュメンタリー映画『合気道』製作

1962 昭和37年

4月29日

朝日ホールで第二回合気道演武大会

 

盛平監修・吉祥丸著『合気道技法』出版

増田誠寿郎、ロバート・ドナウ、入門

1963 昭和38年

4月

吉祥丸、ハワイ合気会で指導(合気道一路)

 

清水健二、遠藤征四郎、入門

菅沼守人が亜細亜大学合気道部に入部

 

10月1日

日比谷公会堂で第三回合気道演武大会

 

11月

東北学生合気道連盟発足

1964 昭和39年

10月3日

日比谷公会堂で第四回合気道演武大会

 

11月

勲四等旭日小綬賞を受賞

ロバート・フレジャー、丸山惟敏、入門

1965 昭和40年

10月

中村梅吉文部大臣一行、本部道場訪問、演武を見学(合気会・合気道一路)

1966 昭和41年

1月

橋本登美三郎内閣官房長長官一行、本部道場訪問、演武を見学(合気会・合気道一路)

ブラジルのアポストリカ・オルトドシア教会総大司教より最高名誉称号「伯爵」位を贈られる

 

4月

九州学生合気道連盟発足

 

5月7日

日比谷公会堂にて第五回全日本合気道演武大会、文部省からの後援決定

 

1967 昭和42年

4月

中部学生合気道連盟発足

 

12月15日

合気道本部道場建設・二代目理事長は吉祥丸

菅沼守人、本部道場へ入門

1968 昭和43年

1月

合気会本部道場落成式

 

7月

合気道学校が東京都から認可

 

10月5日

日比谷公会堂で“新道場落成記念第6回全日本合気道演武大会”開祖は最後となる演武を披露

1969 昭和44年

2月

砂泊兼基著『武の真人 植芝盛平伝』発行

 

4月26日

5時26分、すい臓がんにより自宅で昇神

正五位勲三等瑞宝章が追贈

和歌山県田辺市名誉市民に推挙

植芝吉祥丸、合気道道主継承

 

10月11日

日本武道館にて開祖追悼第7回全日本合気道演武大会

 

1970 昭和45年

10月

四国学生合気道連盟発足

 

井上、親英体道に改称

1972 昭和47年

富木健二、日本合気道協会設立

藤平光一、気の研究会

 

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参考文献

植芝盛平 年譜

合気会 歴代道主略歴

工藤龍太著『近代武道・合気道の形成:「合気」の技術と思想』(Amazon)

決定版 植芝盛平と合気道Ⅰ(Amazon)

決定版 植芝盛平と合気道Ⅱ(Amazon)

合気道開祖植芝盛平伝(Amazon)

合気道一路(Amazon)

田中万川著『合気道神髄』

砂泊兼基著『武の真人ー合気道開祖植芝盛平伝』

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