武道の試合とは何のためにするのかを適当に考えてみた

why we try?

武道には稽古の一環として試合があります。試し合うと書いてまさしく試合です。

 

以前、武道の試合とは武器を想定した一本を取る為の稽古だ!というような記事を書きました。

参考:試合とは何なのか?武道と格闘技の試合観の違いについて考えてみる

 

今回はそれに加えて、武道の試合におけるもうひとつの想定である対多人数ということにも触れながら、本来の試合とは何を目指していたのかを考えてみたいと思います。

目次     

1.試合とは何だったのか?
2.試合で何を稽古するのか?
3.稽古としてどうあるべきか?

1.試合とは何だったのか?

試合があることで成功した武道といえば『柔道』なんじゃないでしょうか?

 

オリンピック競技にもなったし、競技人口や国際的な知名度もかなりのものがあります。

 

こうして柔道が取り入れた試合形式はもともとは柔術の流派、起倒流や天神真楊流でも取り入れられていた乱取り稽古から来ています。

 

試合というほど大仰でもないけれど、稽古として柔術や剣術ではお互いに技をかけあうような形で行われていたのが乱取りです。

 

柔道の講道館がその名を轟かせるきっかけとして、警視庁が警察官が習得するための武術を選定するために開いた武術大会で、多くの柔術流派を圧倒したという経緯があります。

参考:井上俊『「武道」の発明―嘉納治五郎と講道館柔道を中心に―』

柔道の創始者である嘉納治五郎は柔道を発展させるうえで、それまでの柔術とは違う2つのポイントを重視しました。

 

ひとつが体系的に理論だてた科学的な指導を行うこと、そしてもう一つが自由に技をかけあう乱取を基本にしたことです。

参考:井上俊『「武道」の発明―嘉納治五郎と講道館柔道を中心に―』

 

指導のわかりやすさと、乱取りによる技術の向上で柔道は人気を博し、その結果、指導方法や稽古の内容で柔術は試合において差をつけられてしまったように思います。

 

ただ、ここで注目しておきたいのは嘉納治五郎は柔術が大切にしていた形稽古を軽視していたわけではないという点です。

 

試合と形に関してこのような言葉が残されています。

柔道の技術分類は、「投技」・「固技」・「当身技」の3種から構成 されているが、「乱取 ・試合」においては「当身技」を想定して「投技」を行うことが主な課題とされた。

例えば「乱取 の練習 は一面真剣勝負の練習であるということを忘れている。(中 略)真剣勝負の場合ならば、脚を開き、腰を下げ、頭を前に出すような姿勢はきわめて不利である。

面部にでも、胸部 にでも、対手から当身を受けやすい。また対手の攻撃に対して、自分の身体を敏捷に動して対応することが出来難い。

平素の乱取の練習の際、当身を用いることは、危険であるから、しないだけで、本来は、いつでも対手が当身で攻撃してくるということを予想して、練習しなければならぬ」と述べている

参考:永木耕助『嘉納治五郎の柔道観の力点と構造~言説分析によるアプローチから~』

第6章「武術としての価値」より抜粋

太字はマツリによる


この言葉からわかる通り、柔道の試合では「当身」(打撃)による攻撃は危険が伴うため、あえて省略しているだけであり、

 

試合を行う者には常に当身があるということを想定した動きをすることを要求していました。

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しかし、学校別の対抗試合や全国大会などによって、柔道の競技としての人気が高まったしまったことで形稽古は軽視されるようになっていったと考えられます。

 

現代の柔道の試合では殴ればもちろん反則です。ルール上は禁止されているから想定しないという考え方はスポーツにおけるゲーム的な考え方です。

 

このあたりは試合とスポーツ(ゲーム)との違いにもなる部分ですが、ないから想定しないのと、想定した上で戦うのとではまったく形が異なります。

 

極真空手などでも、当初は「顔面への攻撃は禁止」というのは試合をスポーツとして開催するための建前だったという話を聞いたことがあります。

 

この話が本当かどうかはわかりませんが、基本的に試合を一般に広く普及させるとき、どうしてもルールは明確にしなければいけません。

 

ルールが明確になってしまえば、反則であり、ゲームの上ではやってはいけないことになります。

 

スポーツである以上、反則をすることはルール上まったくメリットがありません。だから明らかな反則をする人はいなくなります。

 

そうなったら試合で勝つためには反則のことを考える必要がなくなるのです。

 

当身や顔面への攻撃を想定しておくという前提はルールの前ではないに等しいものになってしまいます。

 

多くの武道武術が試合の導入をきっかけに、こうした本来の想定を失ったように思います。

 

ですが、相手がルールを守るというスポーツマンシップが当たり前というのは、平和な時代の象徴でもあるので、スポーツの上では歓迎すべきことです。

2.試合で何を稽古するのか?

では柔道の試合においては何故、投げを試合の基本としたのか?

 

という点について先ほど紹介した論文で、嘉納治五郎はこのように説明しています。

投技については、「なぜ投に重きを置くかというに、(中略)真剣勝負の時には、平素身体の変化の修行が大切である。

これがために大いに利益がある。抑業(おさえわざ)や絞業(しめわざ)などのみを修行していては、多人数を一時に対手(あいて)にするような時には、間に合わぬ」と、

「身体の変化」すなわち体捌きによる変幻自在な動きが武術として必要であるという観点から、その重要性が指摘されている。

 

参考:永木耕助『嘉納治五郎の柔道観の力点と構造~言説分析によるアプローチから~』

第6章「武術としての価値」より抜粋

太字と()内のふりがなはマツリによる

 

ということであり、投げそのものよりも身体の変化を稽古する為に投げ合う稽古としていたようです。

 

身体の変化については、合気道開祖が戦前に発行した書物にも次のように書かれています。


戦法、体の変化は限界なき栄光の道であり、一をもって万にあたるの道である。

参考:植芝盛平著(植芝守高名義)『武道』より抜粋

 

この本における体の変化という言葉は、入身体の変化というような形で、入身転換に並ぶ基本動作として説明されています。

 

嘉納治五郎・植芝盛平の両者ともにバックボーンには柔術があり、そして『体の変化』についての説明からは多人数を相手にすることを想定していることがわかります。

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また嘉納治五郎は植芝盛平の武術を見た際に「これが本当の柔道だ」と言ったという話が伝わっています。

参考:日本合気道協会:富木合気道とは-嘉納治五郎の目指した柔道

単なるお世辞だったというよりは、こうした柔道の背景を考えると理想としていた姿は合気道ともかなり近かったのではないかと思えます。

 

今でこそ柔道と合気道はまったく別物の武道のようではありますが、柔道は試合を取り入れ競技化していき、

 

合気道は演武以外では一般的に目にする機会が少なくなっていった結果、このような違いが出たのではないかと思われます。

 

ただ、対多人数だの対武器だの、そんなもん現代において想定するやつはまずいない!という問題もあるのですが、それはまた別のお話ということで…

 

剣道などの経験的な話でしかありませんが、大人数で乱取りをしていると試合とは違って相手にだけ集中できるわけではありません。

 

周囲でも同じように乱取り稽古をしている人たちがいるので周囲にも気を配っておく必要があります。

 

そういった意味では、本来の目的として多人数を想定する稽古の一端にはなっているようにも思われます。

 

ただこれは、場所が狭いとか人数が多い場合に限った副産物的な話かも知れませんけどね。

 

形稽古がメインである合気道でも人数が多ければ周囲に注意する必要が出て来るので、ある意味では多人数への対応の稽古とも言えるのではないでしょうか。

 

ただ武道武術全般において、総合格闘技や空手柔道などの試合が広まって一対一の試合が身近になったことで、

 

逆に多人数を相手にするということが重要視されなくなってきているようにも感じます。

3.稽古としてどうあるべきか?

武道においては精神性が大切、というような話がありますが、そもそも精神性ってなんやねん?ということを考えると、

 

こうした多人数や本当に切迫した事態に陥った時の冷静さなどを持っていることが武道の求める精神性なのかも知れません。

 

嘉納治五郎は学校間での対抗試合が広まるにつれて次のような言葉を残しています。


「高専柔道」に限らず「試合」結果に固執し、はじめから防御大勢にまわる試合に対して、

「対校試合その時の勝ち負けが修行の真の目的でなく、真の目的はいつあることか分からぬが真剣に勝ち負けを決する必要の生ずることのある場合に不覚を取らぬためである。

学校間の対校試合のごときは、修行中の練習の一の形に過ぎぬのである。

だからその時に勝つとか負けるとかいうより、真剣の試合の時に負けないように実力を養っておこうという心掛が大切なのである。」

と、その弊害を指摘している。

そしてまた、「勝敗も重んずべきことではあるが、なお一層大切なることがあることを忘れてはならぬ。

それは何かというと、対手(あいて)に対する態度、業、試合の際に自然に発揮する精神状態である。」と述べるように、

目前の勝敗よりも、その背後にある精神が問題にされたのである。

参考:永木耕助『嘉納治五郎の柔道観の力点と構造~言説分析によるアプローチから~』

第6章「武術としての価値」より抜粋

太字、()内ふりがなはマツリによる

 

こうした精神性というのは、どうしても試合では見過ごされがちです。

 

例えば胴回し回転蹴りは自らが倒れるように蹴りを出す技なので、失敗すれば無防備になり多人数相手の時にはとてもできないような技です。

 

しかし、倒れた相手への攻撃が禁止されているようなルールであればリスクはそれほど大きくはありません。


こんな感じでルールがあるということは、ある程度の安全性が担保されているということでもあり、限定的な条件でのゲームだといえるわけです。

 

こうした試合によるズレを修正するのが本来は『形稽古』の役目だったように思えます。

 

柔道の場合は先述したように、試合では出来ないような危険な当身技を補完できるように「形」があります。

 

合気道などでも当身は省略されがちではありますが、実際には必要があればいつでも当身を入れることができるようになっています。

 

試合を重視した柔道は結果的に当身の稽古であったはずの形の稽古が疎かになってしまったと言えます。

 

一方、形を重視した合気道はどうかと言うと、実用可能かどうかの検証が不足してしまっている面があると思います。

 

形稽古で上手にできていても、相手が抵抗してきたときにはできないということがあります。

 

試合というのは、相手が素直に技にかかってくれなかったり、本気で攻撃を仕掛けてきてくれるという点では技の検証として大きな意味があります。

 

ただ試合は試合で技がかかればいいということになりかねない部分があり、手っ取り早く勝つ方法としてフィジカルを鍛えるという方向に行きがちになってしまいます。

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このように試合・乱取り・形稽古というのは、どれも完全ではありません。

 

そしてそれぞれ稽古方法には利点があれば難点もあります。そこを理解していれば応用も可能です。

 

試合の稽古であっても、形稽古のように理屈にあった動きを検証することは可能ですし、形稽古であっても相手にしっかりと抵抗してもらえば実用に耐えるかどうかを検証することはできます。

 

試合で勝つというのは普及するうえでの目標としては非常に効果的だったと思いますが、武道においては大事なことは試合を中心に考えないことだと思います。

 

武道が目指している精神性というのは、その程度のことではないということです。それすらも稽古の一環でしかないのです。

 

非常に個人的なことですが、合気道をしながら空手の試合に出たりしているのですが、

 

試合の後に空手としての反省点とは別に、合気道としての反省点が見えてきたりもします。

 

剣道には「打って反省、打たれて感謝」という言葉があります。

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現代では試合の延長に実際の戦闘があると思われる傾向が強いように思います。

 

ただ、本当の意味での戦闘というのは相手が大勢だったり、武器を持っているということが有り得るので、

 

武道武術であるなら試合というのは条件が限定されたゲームだという意識を持っておくことも大切だと思います。

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