試合とは何なのか?武道と格闘技の試合観の違いについて考えてみる
「武道武術と格闘技は同じなのか」問題というのがあります。
YouTubeなんかにはリングにあがってボコられる自称武道家や武術家の姿がいっぱい残されています。
そうなると武道武術はしょせんは時代遅れで、現代のような総合格闘技的な戦い方のほうが実践的だという話が出て来ます。
でも、武道武術と格闘技って本当に同列に語れるものなのかなー?と思ったのがそもそものはじまりでした。
目次
・言葉から考える
・歴史から考える
・試合とは何だったのか?
言葉から考える
実は日本人が抱く試合のイメージは独特なんじゃないかと思ってます。
最近ゲーム機を使った遊びをeスポーツと呼ぼう!という動きがあって、それに対して色々と反論が出てました。
『スポーツはゲームではない』とか『ゲームをスポーツとは思えない』という意見が多いみたいですが、
英語で考えてみるとスポーツというのはゲームのことなのです。
例えば野球の試合を英語に訳すとBaseball game(ベースボール・ゲーム)になります。つまり野球のゲームです。
そして選手はプレイヤーと呼ばれます。野球というゲームをプレイしている人だからプレイヤーです。
他の競技でも今のプレーは素晴らしかった、みたいなことを言いますよね?
このようにゲームというのはルールの決められた中で行われる勝負のことであり、スポーツというのはゲームという大きな枠の中のひとつのジャンルなのです。
ただ、日本人がこの問題に反発するのは実は言葉の問題があるからじゃないかと思ってます。日本における試合はゲームではないからです。
何言ってんだと言われそうですが、日本では試合のことをゲームとは呼びませんよね?
試合というのは読んで字の如く『試し合う』という意味があります。
英語ならどちらかと言うとゲームではなくトライ(try)と言うべきではないでしょうか。
参加者はプレイヤーではなく選手と呼ばれます。選手というのは選ばれしなり手というような意味で、職人的なイメージさえあります。
つまり日本での試合というのはゲームなんぞという軽々しいものではないってことなのです。
本来のスポーツの語源は「別の場所に物を運ぶ」というような意味だったそうです。
そういった意味では運動という言葉はスポーツとほとんど同じ意味ですが、日本におけるスポーツは運動であっても、試合はゲームではない上に、プレイヤーは選手なのです。
日本ではじめて格闘ゲームのプロになったと言われる梅原大悟や、アメリカでフードファイトを競技に変えた小林尊といった日本人は、
そもそもスポーツと思われていなかった競技に対して、スポーツ的なアプローチを取り入れたと語っています。
ですがこうした発想は実は、日本的なスポーツの発想だと言えるでしょう。
格闘ゲームに武道武術のような読みを取り入れたり、ただガッつくだけだった大食い競技に戦略を持ち込んだりすることができたのは、試した結果です。
色々なことを試して新しいやり方を見つけていくというのは、ゲームではなく試合という発想があるからこそなんじゃないでしょうか。
歴史から考える
試合を観戦する側からとらえる試合がどういうものだったのかを考えてみるとまたわかりやすいかも知れません。
ローマ帝国ではパンと見世物という形で娯楽として奴隷同士の戦いがありました。
またタイの国技ムエタイなんかは、勝ち負けを賭けるものであり、やはり娯楽のひとつという形でした。
プロレスは言わずもがなショーとしての側面がありますし、ボクシングや総合格闘技もエンターテイメントになっています。
入場料を取ったり、チケット代があったり、お金やなんらかの対価を払ってみるものです。
では日本ではどうだったのかと言えば、かつては試合というなら御前試合や天覧試合みたいなものがあったみたいですが、庶民が娯楽としてみるようなものではなかったように思えます。
榊原健吉が剣道を復興させるため撃剣興行という興行をやっていたといった話はありますが、これにも賛否があります。
その後も剣道の試合を入場料を取って見せたり、空手の試合で賭けをするみたいなことがおおっぴらにされたことはなかったのではないでしょうか。
この辺りが、色んな人がスポーツ化を嫌ったひとつの要因かも知れません。
現代剣道の発展において重要な役割を担った中山博道は竹刀での試合に対して、
所詮あれは竹刀捌きで、忌憚なく申し述べれば、及第点をつけられる者は只の一人といない。(中略)あんな攻防は日本刀ではとても思いもよらぬことであって、非常識も甚だしい。
という言葉を残しています。
こうした批判もあってか、剣道は現代でもオリンピック化などには積極的には動いていないという現状です。
実際に柔道は国際的な競技になったことでルールの変更などがあり、本来の柔道から離れているという批判もあります。
試合の導入を認めなかった合気道の開祖、植芝盛平はスポーツに関して「ざれごとの競争」とまで言い切ってしまっています。
我国には、本来西洋のようなスポーツというものはない。日本の武道がスポーツとなって盛んになった、と喜んでいる人がいるが、日本の武道を知らぬも甚(はなは)だしいものである。
スポーツとは、遊技であり遊戯である。魂のぬけた遊技である。魄(肉体)のみの競いであり、魂の競いではない。つまりざれごとの競争である。
ちなみにこの批判について英語版の武産合気は一切触れていなかったのがちょっとオモロかったです。さすがにヤベーと思ったんでしょうか?
トップのこの考え方によって合気道は試合を取り入れなかったことで、他の武道との差別化に成功したとも言えます。
ただこちらもこちらで本来目的としていたような状況になったかどうかと言われるとなかなか難しいところです。
戦後はGHQに武道武術が禁止されてスポーツとして復活させなければいけなかったというような事情もあったのかも知れません。
それまで大々的に試合という形をとっていなかった多くの武道武術がスポーツ形式の試合を導入しはじめました。
やがて日本は極真空手やプロレスが発展し、日本の試合文化を取り入れた上で、いわゆるゲームとしての試合である格闘技の時代がきました。
K-1やプライド、そして今のUFCやRIZINといった格闘技ブームは日本なくしては生まれなかったと思います。
こうした流れはかなりスポーツ化にシフトした流れだったと思います。
試合とは何だったのか?
では逆に本来の日本での試合が目指したかったものとは一体なんなのでしょうか?
かつての剣術の稽古は真剣や木刀を使った寸止めの形稽古が主流だったそうです。
そこに新陰流が当てても比較的安全な袋竹刀を発明し、乱取りが盛んになっていったという歴史があります。
ですが竹刀の稽古では剣の扱いが学べないという弊害があります。中山博道も竹刀稽古と形稽古は本来ふたつでひとつであるという意味の言葉を残しています。
この剣道の試合に影響を受けたと思われるのが伝統派空手の試合形式です。
そして、これまで形稽古が主流だった柔術に乱取りを取り入れた柔道が嘉納治五郎によって創設されます。
これらの武道の試合には共通するものがひとつあります。
それは本来は『一本』を狙う試合だったという点です。
これが当たれば間違いなく相手を倒せるという一瞬を狙った一発がすなわち『一本』です。
本来のゲームではなかった試合が目指すところは、どうすれば『一本』が取れるかを試すものだったのではないかと思います。
現在、柔道をはじめとする多くの競技でさまざまなルール上の制限があります。
人によってはルールが制限された試合をやると変なクセがついてしまうとか、実践的ではないといった批判をする人がいますが、
ボクシングやMMAといった格闘技と武道武術の試合では本来のデザインが違っているように思えます。
個人的な考えですが、格闘技はポイント制のゲームであり、身体能力と多彩な技を競うものだと思ってます。
パンチやキックの技術に加えて寝技など、相手よりもどこかの部分で勝っていたらそこを突いていく、総当たりで答えを探していくような、まさしく総合力が試されるゲームです。
それに対して武道武術の試合というのは、一本の取り方を理解するということに尽きるんじゃないかと思います。
ルールを制限しておいて、制限されたルールの中でとりあえず完璧な一本を取る稽古をする。
ありとあらゆるものを使って勝ちを目指すのと、勝つためにひとつのことだけを探求するという違いが格闘技と武道のルールの違いなのではないでしょうか。
そもそも武道武術の稽古というのは武器が基本だと言われています。
武器を使えばほとんどの攻撃は当たればそれでおしまいです。
剣道なんかで面打ちを頭だけかわしているのを、それじゃあ袈裟切りで斬られてるよねという批判がありますが、
かわされるということは、一本のタイミングではなかったということだとも言えます。
だからこそ制限された場所に如何に正しく当てるか、というのが武道武術の試合で稽古すべきことだったのではないか?
というのが、最近空手の試合に出てもなかなか一本が取れないマツリが考える試合観です。
こんな考え方で試合ができたらいいかなーと思っております。
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参考文献
(2)高橋英雄著 植芝盛平先生口述『武産合気』(Amazon)